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                          |  | 乾いてささくれ立った男の指先に、小さく柔らかな手が伸ばされる。 
 「わあ。とても、冷たい手だね」
 
 ふと顔を上げると、白く輝く姿をした少年が、そこに立っている。
 過去も家族も何もかも失い、今は一人でひっそりと生きている男にとって、
 そんな風に話しかけられたのは久しぶりのことだった。
 
 「夕方は、よくここに来るんだね。この丘の景色が好きなの?」
 
 「ああ」
 
 「どうして」
 
 「教会の鐘が何度も届く」
 
 確かに五時の鐘は反響し、何度となく美しい音色を響かせていた。
 
 「……本当だ。天使が歌ってるみたい」
 
 貧しい者の心に響くクリスマスキャロルのように……
 誰にも平等に与えられるその恵みに、ちいさな精霊は目を閉じて聞き入った。
 
 「きれいだねえ」
 
 「もうじき、日が暮れるぞ。子供は家に帰れ」
 
 妙なことを言って、少年は柔らかく笑った。
 
 「でも僕、人間じゃないんだ」
 
 「人間じゃなければ、何だというんだ」
 
 「嘘じゃないよ。聖霊だ。あなたには聖霊が見えるんだね、神父さま?」
 
 「……俺は神父じゃない」
 
 男は、ローブの影から呟いた。
 聖霊とは天の御使い……神が人にその意志を伝えるため、地上に遣わす天使や動物のことだ。
 男は昔、聖霊の姿を見たことがあるような気がした。
 それは、単に教会の彫刻かもしれないし、聖書の挿絵かもしれない。
 だが、実際に目にする聖霊の存在はなつかしく、
 失われた記憶のどこか、優しい場所に結びつく。
 だが恐ろしいことに、男が悪魔の姿を見るのは毎日のことだった。
 最初は幻覚かとも思ったが、自分の身体に及ぼす力の強さを見ると、
 現実なのだと認めるしかなかった。
 もう随分と長いこと、悪魔から逃げ、悪魔と戦いながら街を渡ってきた気がする。
 だが幸か不幸か、既にその記憶は失われており、もう思い出すことはできない。
 
 「でも神父さま、聖霊が見える人に出会ったのは久しぶりなんだ」
 
 「神父じゃないと言ったろう」
 
 「だって……じゃ、あなたの名前は?」
 
 「忘れた」
 
 「じゃダークでいい?」
 
 「勝手な名前をつけるな」
 
 確かに暗い色のローブに身を包み、
 顔を隠して裏の往来を歩くその男には、似合いの名だった。
 
 「でもダーク、大丈夫? 怪我をしているんでしょ?」
 
 「…………」
 
 精霊は人の話を聞かないようだ。だが、彼らに隠し事はできないらしい。
 確かに男は腹部に怪我を負っていた。
 しかしその怪我の理由を、もう思い出せない。
 痛みにはもう慣れたが、その原因が一切わからないことが、
 男をしばらく不安を駆り立ていた。それを小さな聖霊は簡単に見抜いたのだ。
 
 「何故、俺についてくる」
 
 「もうじき夜だし、一人じゃ悪魔に会うかもしれないし……」
 
 「聖霊のクセに、悪魔が怖いのか」
 
 「うん。僕は強くないし……僕一人じゃ、悪魔には立ち向かえない。
 僕にできるのは、悪魔の時間を止めることだけだ。」
 
 そう言って、小さな手を伸ばす聖霊は、人間の子供のようだ。
 
 「私が助けを求めていると言ったはずだろう? 助けが必要なのはどっちだ」
 
 「一緒に、行っていい?」
 
 「……」
 
 伸ばされた弱い手を振り払うことは、その男にはできなかった。
 
 「わかったよ。私には何もないが、悪魔を封じ、遠ざけることならできる。
 悪魔が怖いなら、近くにいるといい」
 
 「……ありがとう」
 
 小さな聖霊は笑った。
 
 「それなら、僕の力でも役に立てるね。
 それに、僕の姿が見えた人間に会うのはひさしぶりなんだ」
 
 「名前は?」
 
 「僕はロップ。 純粋と童心の聖霊だ」
 
 ダークの側にいる少年の姿は、街ゆく人々の目には見えない。
 そして、二人が街の中に見る、悪魔の姿も。
 だが、こうして鐘の音に包まれていると、心が救われていく。
 まだ、天は自分を見放してはいない。だから、自らも誰も見放すことはない。
 
 「行こう。もうじき日が暮れるよ」
 
 「ああ」
 
 ロップは子供らしい笑みを浮べ、ダークの手を引く。やがて、五時の鐘が鳴る。
 男はすり減ったブーツの底で、夕暮れの街を後にした。
 小さな聖霊の姿は、街の人々の目には見えない。
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